「雇う」と「書く」

太田 至

 私は2019年3月末で、33年間務めた京都大学を定年退職になる。私の雇用者は国家あるいは京都大学だったわけだが、退職の時期が間近になると、「雇用」とは何だったのか、私と「雇用主」との関係はどのようなものだったのかと、いままでには考えもしなかったことが脳裏に去来する。現在の日本は、「非正規雇用」「外国人雇用」「障害者雇用」「女性のライフイベントと雇用」「若年者の高い失業率」「過労死」あるいは「働き方改革」など、雇用や労働をめぐって多くの問題をかかえているが、私の雇用もまた、こうした課題群のなかにあったはずである。

 ただ、ここでは直接にこの問題を考えるのではなく、私が1978年以来、調査してきたトゥルカナの人びとにとって「雇われる」とは、どのようなものだったのかを記しておきたい。

 トゥルカナは、東アフリカ・ケニアに暮らす牧畜民である。ケニア北部には半砂漠やサバンナが広がっており、家畜とともに生きる諸民族が暮らしている。トゥルカナもそのひとつであり、東北地方ほどの地域に約90万人が生活する。ケニアがイギリスの植民地支配から独立したのは1963年のことだが、ケニア北部は、植民地時代から開発=発展(development)とは縁が遠かった。鉱物資源でも出ないかぎり、この乾燥地域に投資してもあまり得るものはないと考えたのは、ケニア独立後の政治家たちも同じだった。私が1978年にトゥルカナの調査を始めた当時、その地域で目についた外来者は、キリスト教の布教活動にたずさわる人びとや、僻地に派遣された不運を呪いながら任期が終わるのをひたすら待っているケニア人の役人たち、そしてロバの背に商品をつんでサバンナの商売にいそしむソマリ人だけであった。

 しかしながら、この40年のあいだに状況は激変した。この地域が大旱魃におそわれたときには、緊急の食糧援助や医療支援が外部から入ってきたし、井戸掘りや家畜の病気のコントロール、生計の多様化などを目指した開発支援もおこなわれるようになった。また、トゥルカナ・ランドを縦貫する道路が1980年代の終わりに舗装されたことによって、大量の人・モノ・カネ・情報が乗り合いバスに満載されて流入するようになった。さらに1992年には、私の調査基地であるカクマの町に、隣国のスーダンやソマリアから流入した難民を収容するためのキャンプがつくられた。このキャンプでは、四半世紀を経た現在も20万人近い難民が生活している。そこに投入されてきた莫大なカネとモノは地元社会にも流出し、旱魃によって家畜を失ったトゥルカナの人びとが、その日暮らしの糧を求めて難民キャンプの周囲に集まってくるようになった。

 この40年間に、トゥルカナ社会には急速に現金経済が浸透し、道路工事や難民キャンプの肉体労働、町での商売などに雇用される人びとも増加していった。しかし、私が調査を始めたころには事情はずいぶん異なっていた。そのことがよくわかるエピソードを紹介しよう。

 私は1980年に第二回目のフィールドワークをしたとき、エオジットという当時20才ぐらいの若者を調査助手として雇った。彼は、どれだけ歩き続けても疲れをみせない頑強な身体と、野生の動植物に対する鋭い観察眼と無尽蔵の知識をもった好青年だった。学校に通ったことがない彼はトゥルカナ語しか話せず、私のほうは約4カ月間の第一回の調査を終えていたものの、トゥルカナ語を習得するにはほど遠かった。渡航前にはトゥルカナ語の辞書も文法書も入手できなかった私は、「きっと役に立つ」と期待しつつスワヒリ語だけを勉強していた。ところがトゥルカナの村に住み込んでみると、スワヒリ語を話せる人もほとんどいない。私は小学校を出たばかりの少年ロルブインを通訳として雇い、彼を介してエオジットとコミュニケーションをとることになった。私たち三人は3カ月間ほど寝食をともにした。エオジットとロルブインは、私が行くところには常に同行し、トゥルカナの生活や文化に関する手ほどきをしてくれた。

 帰国の途につく前日、私は、以前に話しあって決めていたように二人の日当を計算して手渡した。そのとき、ロルブイン少年は普通にそれを受けとったのだが、エオジットは奇妙な反応をして、私をまごつかせた。そのカネを見た彼は「あれ!? これは何だ!?」とでも言いたげな表情をうかべて、一瞬、躊躇したあとでカネを受けとった。そして唐突に、「次におまえがここに戻って来たらオレの家をたずねてこい。ヤギを食べさせてやる」と言ったのである。

 このときのどこかギクシャクとしたエオジットの態度は、ずっと私の心の隅に残っていたが、今になってみればよくわかる気がする。彼は、寝食をともにしていた私に対してある種の「親しさ」を感じていたにちがいないが、だからといって彼が、「親しい者のあいだにカネの受け渡しはそぐわない」と考えたわけではない。彼には、「親しい者同士の関係」に対置されるものとしての「雇用関係」という観念はなかったにちがいない。そもそも当時の彼は「雇われる」とは何かを知らず、私に対して自分の労働や時間を売っているという意識はまったくなかったと思われる。彼にとって私は、毎日メシを食わせてくれる気前のよい人間だった。私のほうは、それを彼の給料の一部と見なしていたが、エオジットにとってそれは一種の贈与だった。そのうえ私は、最後にはカネまで差し出した。だからこそ、驚きと困惑から立ち直った彼は「次におまえが戻って来たら・・・」と申し出たのだろう。トゥルカナの人びとは、相手を自分の家に招いて家畜を与えることをとおして親しい社会関係を創り出し維持している。

 ところで、ケニアのスワヒリ語で「雇う」という動詞は「ku-andika」であるが(タンザニアでは「ku-ajiri」)、この動詞には「書く」という意味もある。オックスフォード大学出版会の『スワヒリ語-英語辞典』の「ku-andika」の項目には、「write」とともに「register, enroll」という訳語が載っている。ある人を「雇う」ことは、その人の名前を名簿などに「登録する」ことをともなうのだとすれば、ひとつの動詞に「書く」と「雇う」というふたつの意味があることは素直に納得できる。そして、スワヒリ語の影響かどうかは不明だが、トゥルカナ語でも「雇う」という動詞は「書く、描く」と同じ語彙(aki-gir)である。

 トゥルカナ社会では、「書く」ことをめぐって1986年ごろから大きな変化がおきた。私は現地調査のために同じ地域に何度も通ってきたが、私が立ち去る日が近づくと彼らは、「次に来るときには・・・」と言って、いろいろなおみやげを無心する。そしてこのころから「いま自分がねだったものを書け」と言う人が目立つようになった。私は現地では常に小さいフィールドノートをポケットに携行しており、そのことをよく知っている彼らは「そのノートに書け」と言うのである。「どうして書くのか」と問えば、「おまえは忘れてしまうからだ」という、もっともな答えが返ってくる。そして次に私が訪ねていくと彼らは、「おまえは前回に(自分がほしいと言ったものを)書いただろう」と言って、その履行を迫るのだが、その態度を見ていると、彼らは「書かれたことは実現するはずだ」と想定しているように思われるのである。

 このころから私は、調査地でよく無心の手紙をもらうようになった。それも驚いたことに、私と毎日のように顔をあわせている人から、ある日突然に手紙が舞い込む。その手紙は折りたたんである場合もあるが、ていねいに封筒に入っていることもある。文字を書けない人は知人に代筆させている。手紙は、誰かが配達してくることもあるが、本人が自分で持参して私に手渡すこともある。そして、その場で私に手紙を読ませたあと、「で、どうだ?」と、無心に対する返答を求めるのである。「なにも手紙を書かなくても直接に言えばいいじゃないか」と思うのだが、このやり方はいまでも続いている。また、私が初めて出会った人の名前を覚えておくために、自分のフィールドノートに書き込むと、まわりにいる人びとが「名前が書かれた」と口をそろえて言うようになった。名前を書かれた本人は、いかにも満足げな表情を浮かべている。それは、私の記憶のためのメモではなく、私とその人のあいだにまちがいなく、ある種の社会関係がつくられことを確認する儀式のようなものになっている。

 このころ、トゥルカナの人びとは「書く」ことについて新しい観念をもつようになったのだが、おそらくこれには旱魃の救済事業のひとつとしておこなわれた「food for work」が関連していたと思われる。これは、人びとを集めて植林や道路工事などの仕事をさせ、それに参加した者だけに後日に食糧を配給するという支援方法である。私が現地にいたある日、その配給を受けるために多くの人が出かけていった。集落に残っていたひとりの女性に対して私が「なぜ、みんなと一緒に配給をとりに行かないのか」とたずねたところ、その答えは「私の名前は(ノートに)書かれていないのだ」というものだった。「food for work」では、監督者が毎日、参加した人の名前をノートに記録しており、そこに名前がない人は食糧配給を受けられない。仕事への参加・不参加が記録され、それが後日の配給時に正確に再現されることをとおして人びとは、「書かれたもの」の厳格で固定化された性質や、その暴力的ともいえる冷徹な力を、身をもって知るようになったのである。

 いまでは、トゥルカナの人びとがさまざまな仕事に雇用される機会が格段にふえた。ただし、「雇われること」を「自分の時間や労働を売ること」であると彼らが考えるようになったかというと、そうでもない。人びとは私に「雇われたがる」のだが、それはカネがほしいためだけではない。私と雇用関係にあること、彼/彼女の名前が私のノートに書かれていることは、私とのあいだにある種の親しい社会関係があることを含意している。

 「雇」という字を『漢字源』(学習研究社)で調べてみると、「『隹(とり)+(音符)戸(とびら、とじる)』で、かごの戸をとじて、中に鳥を飼うことをあらわす。転じて、人を家の中にまるがかえにしてやとう意に用いる。顧(かかえこむ)とも縁が近い」と書かれている。古来、中国で人を雇うことは「まるがかえ」だったらしい。おやおや、私は国家や京都大学に飼われていた「かごの鳥」だったのか・・・。