フィールドワークについて太田さんから学んだこと

川口 博子

太田塾入門編:向き合うこと

 太田さんは、自由自在にハンドルをきり、トゥルカナの大地を進んでいった。わたしは窓ガラス越しにトゥルカナの人びとや家畜群が見えるたびに、いちいち歓声をあげていた。稲角くんは、このときからロバに夢中だった。ロドワーに着いたあと、ホテルに部屋をとり翌日のカクマ行きにそなえて、ひといき。と思いきや、太田さんはトイレットペーパーとビールをもって、いそいそと共同の中庭にでてきた。「オイ、ドウ(1)に水入れてもってこい」とひとこと。なにが始まるかわならないまま、わたしは指示にしたがった。すると太田さんは、ビール瓶をトイレットペーパーでぐるぐると巻いたかと思うと、水にくぐらせて地面に置いた。気化熱でビールを冷やす方法とコツを伝授してくれたのだった(2)

 2011年8月14~27日、太田さんは、わたしたち新入り弟子ふたりをカクマでの調査に同行させてくれた。今考えてみれば、忙しくて調査期間が限られている教員にとって、時間をもてあます学生のしつこいおねだりは、迷惑以外のなにものでもなかっただろう。それでも太田さんが、「よし!明後日出発するから、おまえら準備しろ」と言ってくれた瞬間、稲角くんとわたしは色めきたった。当初、わたしたちの滞在予定期間は1週間だったが、わたしはとくにお伺いをたてることもなく最終日まで居すわりつづけた。それでも太田さんはなにも言わなかった。太田さんは、一度決めたら、ことのなりゆきに身を投じると同時に、どんな事態にも最後まで向き合い続ける人だ。これは8年間、ずっと変わらなかった。

 一方でこのときのわたしは、学部時代に自分の調査地を決めていたためにくだらない自信のようなものをもっていた。そのくせ、フォールドでどうやって社会関係を築いていくのかということは、なんにもわかっていなかった。カクマでは、そのことを実感することになった。

 8月16日、太田さんが運転するランクルは、カクマの町にたどり着いたが、太田さんちに行く途中で雨によってできた水たまりでスタックしてしまった。その日は、そこでテントを張って寝た。太田さんは翌日、集まってきたトゥルカナの人びとの協力をえて、水たまりからみごとに脱出した。しかしもっとすごかったのは、人びととの交渉だった。太田さんは、終始穏やかに笑いながら、しかしときにはっきりと断りながら、謝礼額の交渉を続けていた。わたしには太田さんがそれを楽しんでいるようにみえた。

 このあと町のホテルで2泊して地面が乾くのを待ち、19日から太田さんちでの寝泊まりを始めた。わたしはやる気まんまんで、太田さんちの人びとからのねだりに挑んだ。わたしは、だれかと交渉らしきものをするたびに、うれしがって太田さんにその詳細を伝えた。太田さんは、「へぇ~!あいつそんなふうに言うんだ!」と答えてくれて、太田さんにはしない言い回しに対しては、とくにおもしろがってくれた。太田さんは、どんな些細なことでも、フィールドのことならなんでも興味をもっていた。

 8月23日、わたしは太田さんの調査助手のナイエレルとけんかをした。この日の朝、太田さんはナイエレルとわたしをつれて、難民キャンプでの屠殺場調査に出かけた(3)。お昼ごろに家に戻ると、太田さんは手際よくスパゲティを作り、フィールドでいつも携帯している多機能ナイフで木の枝を器用に削って、みごとなお箸まで用意してくれた。わたしがお箸を記念に持って帰ろうとすると、「ばか~!」と言って、放り捨ててしまった。太田さんは、実用品にはすごいこだわりをもつが、記念品のようなものにはあまり関心がないようだ。でも、ものを残すのは好みじゃないらしいが、まわりの人との経験をすごく大事に記憶している人だ。

 このあとナイエレルの誘いで、太田さんとわたしは、キリスト教徒で構成されたグループの歌を聞きにいった。もちろん、彼らはトゥルカナだ。リーダーの男にお礼を求められて、わたしは300シリング(4)を渡したが、男はこの額に納得しなかった。わたしは強く拒絶したので、男はそのまま帰ったのだが、そのことで彼を慕っていたナイエレルと口論することになった。わたしは、トゥルカナの人びとと交渉するんだ!と意気込んでカクマにやってきたのだが、日々繰り返されるねだりに、少々疲れていた。恥をしのんでもっと正直に言えば、わたしは、スワヒリ語ではなく英語で返答する男に腹をたてていたのだった。つまり、現地の人と現地の言葉で交渉しようとしているのに、どうしてとりあってくれないのか!と。

 わたしは、地面に落ちていた枝っきれを、明後日の方向にむかって投げ捨てたあと、原野に向かって歩き出した。太田さんはこのときすでに、42人の知り合いたちに囲まれて、ねだりの交渉をつづけていて、こちらにかまっている暇はなさそうだった。かわりにナイエレルの兄のロキパカが、ナイエレルの息子(彼の名もロキパカ)をつれて、わたしを追いかけてきた。ロキパカは、「暗くなったらハイエナがやってくるから、帰ろう」とわたしを諭したが、それでもわたしはうずくまっていた。彼は「気がすんだら帰ってこい」と言って、ロキパカ少年を残していった。わたしは、少年に気を遣わせている自分が情けなくなって、とぼとぼと家に向かって歩き出した。

 だまってうつむいたまま椅子に座っていると、太田さんは、わたしのそばに近づいてきて、「オマエ、適応能力抜群や!」と笑った。怒られるに違いないと思っていたので、とてもびっくりしたのを覚えている。いまになって思い返してみれば、太田さんは、うまいやり方でなくても目の前の人びととつきあい続ける姿勢を少しだけ褒めてくれたのかもしれない。もちろん、わたしのふるまいが受容されたのは、それ以前に築かれた太田さんと人びとの関係があってのことであるが。わたしは、つきあい続けることは、向き合うことにつながるのかもしれないと思った。必ずしも、一対一で対面的にやりとりすることだけが、向き合うことでもなさそうだ。それからもうひとつ、太田さんは「カネは愛ですから」といって、フィールドでの贈与は、関係性と交渉にもとづいておこなうものであり、固定的な行動様式ではないことも教えてくれた。

 わたしは、このあとフィールドの人びととの関係に悩むたびに、このときの経験と最初で最後の「褒めことば」を思い出すようになった。もっとも、これ以降、太田さんによるわたしへの評価は、「ばか!ばかっ!!ばか~!!!」のオンパレードで、何回言われたのか数えておけばよかったと思うくらいだ。こんなばか弟子に対して、こんなにも真剣に向き合ってくれる師匠は、太田さんのほかにはいないと思う。

太田塾実践編:わかること

 2012年4月20日、ナイル・エチオピア学会での発表内容の相談をしていたときだった。発表日の2日前、ギリギリの状況で、6時間(翌日さらに4時間)もつきあってくださった。太田さんは、事例の解釈に悩むわたしに対して、「はっと気づいて驚いたことってあるやろ?じんわり身にしみてわかったことがあるやろ?」と穏やかにも強く問いただした。わたしは、この言葉をうけて、そのときは自信をもって事例の解釈のし方を決めた。でもわたしはこのとき、太田さんが意味したことに対して、かなり単純な理解をしていた。このことには、フィールドワークを続けるにつれて実感するようになった。そして漠然としながらも、自分がなにをどうわかったと思ったのか、わたしが見てきたものにはどれくらいわたしによるバイアスがかかってしまっているのか、と自問自答するようになった。

 この問いに対して、わたしは具体的な方法を工夫しようとはせず、フィールドの人びととの日常的なつきあいの時間を可能な限り増やすことをおして、「わかる」ことにたどり着こうとしてきた。つまり、できるかぎり人びとが自発的に語ってくれる内容をデータとして扱いたいと考えたのだ。もちろんこの方法でも、わたしは透明人間ではないので、人びとの語りや相互行為になにがしかの影響を与えてしまうことは避けられない。

 太田さんによる研究指導では、具体的で詳細なデータとフィールドの人びとの「感じ」が大事にされてきた。太田さんは「感じ」とはなにかを明示することはなく、トゥルカナでの経験をとおして、この「感じ」なるものの具体例を教えてくれた。わたしの理解によれば、「感じ」とは、人びとの日常にみられる「こういうときはこういうふうにする/なる」というような行動様式であるが、規則や規範のように人びとが言語化する、あるいは研究者が容易に言語化できるようなものではなく、もっと漠然とした相互行為の特性のようなものである。あるいは、人びとは「こういうことに対してこういうふうに思っている」くらいの、「ふつう」とか「常識」みたいなものも含まれるかもしれない。これは研究者がはっと気づいて驚いたり、じんわり身にしみてわかったりするものらしい。つまり「感じ」とは、方法論にもとづいて調査をおこない、論文に書きうるデータや結果とは異なるのである。

 研究の相談をするときには、データと「感じ」をうまく組み合わせて説明しない限り、太田さんを納得させることはできない。データを「感じ」に位置づけることが求められるのだ。ようするに「感じ」を説明することによって、特定のデータの解釈が、広い意味での社会的なコンテクストにあっているかどうかを試すことができるのである。

 太田さんは、1989年に開催された『フィールドからわかるということ』というシンポジウムで、フィールドワークでの経験と方法について語っている[太田 1989]。太田さんは、フィールドでの経験は頼りないものだということを出発点にして、「…省略…一応体裁がついたものを書いても、どこか違ってしまうもの、残ってしまうものがあり、おそらく自分が曖昧な形でつかんでいるものとか、自分の印象だとか、そういうものが表現できない、表現方法がわからないということがある」[ibid: 85]という。このすごく長い一文に、なみなみならぬ執着がうかがえる。そして、この一文から経験とは、データと「感じ」のふたつに避けがたく分かれてしまうようだ。つまり「感じ」とは、経験のなかでデータとして記述できずに残ったものだということになる。

 つづいて、この状況に対処するためによい方法を選択する必要があるというのだが、「ある方法に頼りすぎると経験をやせ細らせてしまうことがある」[ibid: 88]ともいう。そのとおりだと思うが、じゃあいったいどうしたらいいのか。太田さんは、方法について「私たちが選択するときに、なんらかの客観的な条件に依拠しながら選択する、ということはおそらくないのはないかと思います。私たちがなにによって選択するかというと、それは個人の決意といった性格のものではないでしょうか。そして(私自身はなかなか選択できないので大きなことはいえないのですが)、私たちはなんらかの選択をするときには、比喩的ないい方をすれば、それにのみ込まれてしまうのではなく、意識的にそれをつかみとるように選択する、ということが肝心なのだと思います」[ibid: 90]と締めくくっている。ここで選択するものとは方法であり、もちろんそれは具体的な調査方法なのだと思うが、そこには研究者の姿勢とでもいえるようなフィールドでのふるまい方のようなものが含まれているように思える。

 太田さんは全体のちょうど真ん中くらいで、「私たちがフィールドワークをするときからなにかを書くときまでの全体にわたって、さまざまなレベルでの諸方法や、他者に対する身構え方・かかわり方とか、なにを見ようとしているのかといったことの全体が、私たちが持ちうる経験と密接に関連していると思います」[ibid: 86]ともいっている。なかでも「他者に対する身構え方・かかわり方」によって、経験は違ってくるという部分は、ずきっと胸に刺さった。経験は、自分自身のフィールドでのあり方を色濃く反映するものなのだ。考えてみれば当たり前ではあるが、すべての出来事や人びとのふるまいに関心をもってとことん向き合う太田さんの姿が思い起こされた。太田さんが、いつも「感じ」を大切にするのは、フィールドでえられた経験を取りこぼすことなく総動員して、研究に挑めということだったのだろう。

師匠への挑戦:デスマッチ宣言

 太田さんは、2011年から5年間、「アフリカ潜在力」(5)という大型の研究プロジェクトの代表を務めた。太田さんはその成果本で、アフリカの人びとが紛争(社会内でのもめごとを含む)を乗り越えて共生するための技法として、人びともつ交渉する力を提示した[太田 2016]。わたしはそういう人びとや社会のあり方をかっこいいと思ったが、同時に明確な反発をおぼえた。誤解のないようにつけ加えておくと、このプロジェクトのメンバーの方がたは、アフリカ各地でみられる多様な紛争解決や共生のあり方を議論しており、太田さんは、トゥルカナを含む事例にもとづいて交渉について説得的に論じたのだった。

 わたしは、このとき、自分のフィールドで地域紛争を経験した人びとが生きるさまを、どう描くのかに悶絶していた。人びとは、ときに雄弁に演説し交渉することもあるが、一方で、紛争経験が語られることはほとんどなかった。わたしは、語る姿と語らない姿の両方をどう関連づけて書くことができるのかわかっていなかった。わたしの覚えた反発は、自分のいたらなさに対するいら立ちにほかならなかった。太田さんはわたしの研究を否定したことなど一度もなかったし、いつも助言をくれたが、わたしが経験をうまく言語化できなかったために太田さんの納得をえることはできなかった。わたしにとって大きな課題は、直接交渉のデータを一方に置きながら、直接交渉をしないことが紛争後社会の秩序を支えている、ということを実証することだった。

 わたしは、2018年11月に博論を提出しようと試みたが、直前になってとりやめた。それが、今年度退職される太田さんに対していかに不義理な行為かを知りながら。そのときのわたしには、フィールドの人びとの生きざまを描ききる自信がなかったのだ。そんな状態で博論を提出したら、フィールドの人びとと向き合っているとはいえなくなると思った。そしてもうひとつ、わたしは師匠と一戦交える自信がなかった。でも結果的に、わたしはただ逃げただけなんだということもわかっている。しかし、逃げ続けるわけにはいかない。わたしはわたしのフィールドワークの経験にかけて、太田さんにデスマッチを申しこみたい。死して屍拾うものなし!ヤァァァー!!

 博論で、太田さんに挑みます。 また太田さんに言われそうだ。
 「おまえ、ほんとばかだね。おれ知らないよ」と。


(1) ドウ(dou)とは、スワヒリ語でタライのこと。
(2) 太田さんによれば、トイレットペーペー(乾きやすい薄手の紙ならなんでも可)は1~2周まきつければ十分であり、ときどき容器をゆっくり振ることで、なかの液体の温度を均一にするのが大事だという。この過程で、紙が破れないように注意しなければならない。そして1時間を目安に、紙が乾くたびに水で濡らし続ければ、冷たいビールの完成だそうだ。ただし「まあ、最低30分かな、そんなに待てないし」とのことだった。わたしの場合は10分しか待てないので、冷たいのは2本目からである。
(3) カクマでは、1992年に大規模な難民キャンプが設立された。太田さんは、ここでトゥルカナと難民との社会関係の在り方に関する調査を続けている。詳しくは[Ohta 2005]を参照。
(4) 難民キャンプの市場では、ラクダ肉500gで160シリングだったので、わたしはこのお礼がけっこう高いと思った。1シリングは、だいたい1円くらい。
(5) 日本学術振興会科学研究費補助金 基盤研究(S)「アフリカの潜在力を活用した紛争解決と共生の実現に関する総合的地域研究」2011~2015年度。

 参考文献
太田至. 1989.「フィールドワークについて思うこと―経験・表現・方法―」『季刊人類学』20(3): 78-91.
___. 2016.「アフリカのローカルな会合における『語る力』『聞く力』『交渉する力』」松田素二・平野(野元)美佐編『紛争をおさめる文化―不完全性とブリコラージュの実践―』京都大学学術出版会, pp.129-157.
Ohta, I. 2005. Multiple Socio-Economic Relationships Improvised between the Turkana and Refugees in Kakuma Area, Northwestern Kenya. In I. Ohta and Y. D. Gebre eds., Displacement Risks in Africa: Refugees, Resettlers and Their Host Population. Kyoto: Kyoto University Press, pp. 315-337.