太田さんと出会う ―サファリで教わったフィールドワーク―

波佐間 逸博

ラッキーなナイロビ

 わたしは、太田さんが書いた論文「トゥルカナ族の互酬性―ベッギング(物乞い)の場面の分析から―」を、学部生のころに読んだ。東京・高田馬場の西早稲田の図書館で、ふと目にして、それから夢中になった。

 わたしは商学部生で、2年留年していた。人類学についてもフィールドワークについても、そして地域研究についても(学校)教育は受けたことがなかった。けれど、この論文はとにかく、読んでわかりやすかった。アフリカにもまだいったことはなかったけれども、自分の経験にてらしてみたり、あれこれ空想してみたりして、論文で書かれているトゥルカナと著者(太田さん)との日常的な相互行為において、そしてわたし自身の日本における日常生活のその両方とにおいて、いったいそこでなにがおこっているのかということを、あらためて(いつのまにか)わかりなおそうとする、そして、そのことをたしかにおもしろいと感じていたのだった。

 「人類学という思考の方法を踏んでいく」とは具体的には、いったいどういうことなんだろう。目のまえの事象以上に本質的な世界を生みだしているこの論文世界に没入することで、わたしはアフリカにおける参与観察の実践的イメージをふくらませることができたように思う。そういうわけで、この論文と太田さんと出会ってからずっと、わたしは「アフリカニスト人類学」という道にあこがれつづけてきたのだった。

 わたしにとってのはじめてのアフリカの地は1998年8月のナイロビ。空港ではトヨタハイエースのタクシーがむかえにきてくれていた。日本学術振興会ナイロビ研究ステーションに駐在している足達太郎さんと安渓遊地さんが手配をしてくれたおかげだった。関空からはずっと、太田さんが同行してくれていた。うれしかった。夜明け前のウフル・ハイウェイを街中へとかけあがる車のなかで、ひそかに自身の幸運を讃美しないわけにはいかなかった。

わかりやすくておもしろい

 わたしたちは、ブリュッセル経由でナイロビにむかってきている河合香吏さんと北村光二さんといっしょになったあと、2台の車を運転して、ケニアからウガンダをサファリすることになっていた(写真18)。河合さんとわたしは、ウガンダ北東部の牧畜社会でインテンシヴな調査をはじめるということをすでに決めていた。サファリには、住み込み調査の候補地をある程度はしぼりこんでおくという意味があった。また牧畜地域だけではなく、国境や都市、農村や漁村、狩猟採集民の暮らすハイランドといったほかのさまざまの地域や、そうしたランドスケープの移りかわりをエクステンシブに予察しておくという意味もあった。

 ナイロビに到着した日から、来る日も来る日も、調査生活にかかわるひとつひとつの物事を、太田さんは実地でていねいに教えてくれた。太田さんの説明のしかたにははっきりとした特徴がある。それを聞いているだけで描写されている出来事や光景が目のまえにうかんできて、さまざまな部分や登場人物がたがいに関係をもって動きはじめるので、細部の因果関係や連鎖をはっきりと感覚的にたどることができ、ほんとうにわかりやすいという特徴である。
いろんなひとやもののビヘイビアやからまりあいが「みえてくる」ということは、とてもおもしろいことだ。

 たとえば、環状交差点(ラウンドアバウト)をなめらかに出入りしていくためには、右側からくる車を見ながら、じぶんの進む方向におうじて、いちばん手前からいちばん向こう側までのいずれかの流れに、すべりこんでいけばいいんだと、太田さんは説明する。すると、どこに目線をおいたらよいかを気をつけさえすれば大丈夫なんだなと、たちまちわかる。

 それから、洗濯板状にけずれた路面を走行する最適の速度は、だいたい(時速)80キロメートルなんだよ、そうすると突起の先端から先端へと「とびながら走る」ことができるから、揺れがちいさくなるんだよというふうに太田さんはいう。そして、荷台の積み荷(とくに鉄製の箱や椅子やテーブル)がくずれたままオフロードで走行を続けると、その「こすれ」によって車体が内側からどのように劣化していって、その「傷口」は手におえないまでにひろがってしまうかという説明、等々。

 こうしてみると、対象やものそのものにじかに触れること、ものや出来事の内側からそれを知るということ、つまり「直観」ということを、太田さんがどんなにたいせつにして日々の瞬間、瞬間を感得し、それをことばとしてあらわしているのかを、わたしはあらためて(驚きのうちに)思い知る。毎日の暮らしというものは、どんな細部までも、そういうさまざまなものやひとの存在と動きが、たがいにからみあって、うごめきあっている。太田さんの(心の)眼には、世界がそんなふうにリレーショナルなものとしてあとづけられている、あるいは、そんなふうな肉づけをいまだまっているものとして映現しているように思える。

 太田さんの描写はわかりやすく、その受け手に、新鮮な光をさずけるというところがある。事物を固定し抽象してしか認識しないということをこばみぬくことへ、たえず向かっているからだと思う。個別―具体的な出来事や対象の、そのファセットで明滅するちいさな<問い>を、ゆたかな厚みのあるものとして綿密に描きだしていきたい。わかりやすくあるために。おもしろくあるために。

なにをみるか

 研究テーマをどうするか。太田さんに相談するチャンスは、ウガンダへの国境をこえたあと、カンパラのマケレレ大学のゲストハウスでおとずれた。

 アフリカ牧畜社会の調査のまえ、わたしは北部九州の闘鶏をフィールドワークしていた。闘鶏場での賭博師たちの丁々発止のことばの投げ合いに魅了されていた。その背景にはもちろん、「トゥルカナ族の互酬性―ベッギング(物乞い)の場面の分析から―」において活写されていたような、<コミュニケーションの出来事>にともに棲まうことを否応なくせまる真剣勝負の語りの様相を、発話内的な力の拮抗が対面的相互行為を不可避なものとする交渉の本質を、わたしもいつかじぶんの手でえぐりだしてみたいという思いがあった。

 満足いく成果をまだなにものこしてはいないということが、気持ちのどこかにあったのだと思う。アフリカでも(でこそは)、社会的相互行為にかかわる研究関心をどうしても追究したいと考えていた。

 わたしが「会話分析をやってみたいんです」というと、太田さんは「うん、そうか」とまずはゆったりとうけとめてくださった。そして、すこし間をあけてから「それもいいけれどな、ハザマ。ことばにたよりすぎるのはどうかな。だいいち、おぬし、ことば話せんやろう?まずは人の行動を見てデータをとっていくのがいいんじゃないか。」

 なるほど。だけど、具体的にはどういう場面を観察すればいいのだろうか。「たとえばだれかがだれかと出会ったり、訪ねあったりして、そこでなにをしているか、とかさあ。」

 カリモジョンでは実際にこうした調査をやってみた。毎日、ひとりの人をフォーカル(焦点個体あるいは観察対象者)としてさだめ、一日中くっついて相互行為を記録していったのだ。太田さんの論文「牧畜民による家畜放牧の成立機構―トゥルカナ族のヤギ放牧の事例より―」を参考にして10秒間を一単位とし、だれがだれと(あるいはひとりで)なにをしているのか、観察記録をとったのである。調査ではデンゲルという青年が手伝ってくれた。フォーカルとおしゃべりをしたり、近づき合っている相手のなかにはわたしが知らない人もふくまれる。それがだれであるのかを教えてほしい。これがデンゲルにお願いしたサポートの内容だった。

 じつはこの調査をとおして思いがけない強烈な衝撃でわたしの胸をうったのは、デンゲルの「共在感覚」だった[木村2003]。かれは、フォーカルと近接した「人間」だけでなくて、「ともにある」ウシやヤギのこともひろいあげてその個体名、身体的特徴、フォーカルとの関係といったことを、わたしがとくにリクエストしたわけではないのに、「家畜もまるで人間であるかのように」くわしく教えてくれるのだった。

 文字どおりひとつ屋根のしたで、うまれたときから家畜にピタッとよりそって生きるので、人間例外主義という傾向性が卓越しにくい牧畜民の日常生活のセンスにおいては、共在感覚がつつんでいる空間からはウシやヤギたちもけっして排除されることがないということを、動物も人間とおなじ「資格」でともにいる相手であるということを、わたしはこの日常行動の観察から知ることができたのだった。

どうやってわかるか

 サファリのあいだ太田さんには、フィールドワークについていろんなアドバイスをもらった。わたしが救われたのは、フィールドノートにはすべてなんでも「なにも考えずに」書きなさい、書いていいのだということだった。

 太田さんはいつもフィールドノートにあれこれと書きつけていた。たとえば国境をこえるときの手続きのプロセス。サファリの途中で観察した牛耕用のウシの行動。狩猟採集民の集落の景観とか、そこで物質文化を調査したらおもしろそうだというようなアイデアとかを、さらさらっと気持ちよさそうに書く。

 「あそこからいつも見あげていたんだ」というエスカープメントのうえにたったときには、ウガンダ側からケニア側にひろがるトゥルカナランドをはじめて見おろしながら、太田さんはトゥルカナの人びととかわしてきた、ほとんどため息まじりの会話を想起して、ペンを走らせていた。「ああ、あのエスカープメントのうえには雨がふっているのに、こっちは太陽ばっかだなあ。あっちはいいよなあ。」

 もうひとつのアドバイスは、「ことばで理解しようとする」のではなく、ともに暮らして感じるなかでわかろうとしなさい、というものだった。そのとき太田さんは、外側からの認識にばかりたよろうとしているわたしの姿勢を、つまり実在を記号に翻訳する操作だけでわかったことにしようとする、わたしの「ちゃらちゃらした態度」を、おだやかに批判してくれていたのだと思う。

 あらゆる動物は種に固有な環境世界に棲みこむ実存である。人間とは、表象の脈網に棲みこむことを余儀なくされた、そのような実存である。人間の社会では言語によって表現されることによってそれが現実になるということがある[北村1996]。そして、この「人間の表象の脈網」にたえず命をふきこんでいるのは、身体がくりひろげる微小な相互行為である[菅原 2010: 275]。

 わきあがる「無記名の力」をしめつけようとしてくる、すさまじい言語の力や論理におしこめられることなく、ものごとの細部や感情や経験の微細な部分を、そのひだやきめをかすかな感触のままにとりだそうとするにはいったいどうすればいいのだろう。

 近代の理性がおちこんできた方法主義というオブセッションとは別の道をふんでいくこと。ひたむきに地をはうように日常生活の観察をつみかさねて、「ばかばかしいほど瑣末な事柄」をこつこつと書き続けること。それによってみずからをつつんでいる<世界>のうちに、わが身をしずみこませていくこと。そうした探究の過程で発見されるものによって教えられること。太田さんはこのサファリをとおして、そういう人類学のフィールドワークの核心を教えてくれたのだとわたしは思っている。

 参考文献
太田至. 1982.「牧畜民による家畜放牧の成立機構―トゥルカナ族のヤギ放牧の事例より―」『季刊人類学』13(4): 18-56.
___. 1986.「トゥルカナ族の互酬性―ベッギング(物乞い)の場面の分析から―」伊谷純一郎・田中二郎編『自然社会の人類学―アフリカに生きる―』アカデミア出版会, pp.181-215.
北村光二. 1996.「『平等主義社会』というノスタルジア―ブッシュマンは平等主義者ではない―」『アフリカ研究』48: 19-34.
木村大治. 2003.『共在感覚―アフリカの二つの社会における言語的相互行為から―』京都大学学術出版会.
菅原和孝. 2010.『ことばと身体―「言語の手前」の人類学―』講談社.