山の中の放牧キャンプ

“Soichiro,Pare wo anu?”
(ソイチロ、どこに行くの?)
放牧キャンプの調査に向かおうと村のはずれの道を歩いてゆくと、人々は私におきまりの挨拶を投げかける。
“Ka wo tooka.”
(牛の面倒見に行くのさ)
と答え、私は山を下りる道をたどっていく。
エルゴン山で農耕を営むサビニ(セベイ)と呼ばれる人々は、山の中に独特の放牧キャンプをつくっている。放牧キャンプには、10頭くらいから、多いものは100頭くらいまでの牛が寝起きしており、それぞれのキャンプで1人から4人ほどの牧夫たちが牛群の管理にあたっている。キャンプは村から歩いてせいぜい1時間ほどの距離なのだが、そこは静かでおだやかな時間が流れる、村とはまったく別の世界だ。

村からけわしい崖道を降りていくと、やがて山麓の平原部にたどりつく。平原部は村と比べて人家はまばらだ。ここが、牛の放牧地となっている。そして、平原部に至る少し手前、山腹の切り立った崖下の洞窟などに、いくつものキャンプが点在する。ここからは、平原部が一望できる。村と平原とのあいだの傾斜地は無人の灌木帯がつづいており、キャンプはそのなかにかくれるようにしてつくられている。これは、実際に牛泥棒に来るよその牧畜民に見つかりにくいようにしているものらしい。そしてなにより、洞窟は雨季に雨露をしのぎ、牛と牧夫の寝床を確保するためにたいへん重宝する。

牛のほとんどいない村と違って、毎日牛乳がふんだんに飲め、牛に囲まれてのんびりとした静かな生活を送ることのできるキャンプを、私は気に入っていた。

キャンプでの基本的な仕事は、毎日朝6時ごろに起きて牛の乳を搾ることから始まる。そして10時ごろには放牧に出発し、夕方5時前に再びキャンプに帰ってきて、乳を搾り、夜10時前には床に入る。洞窟のなかで、毛布にくるまって牧夫たちといろいろな話をしながら過ごす眠りにつくまでの時間は、なかなかいいものだ。牧夫たちは、ふだん村でえらそうに振る舞っている村の誰それの失敗談や、さまざまなうわさ話や思い出話に興じ、笑いが絶えない。ときには、別のキャンプから牧夫が訪ねてきたり、平原部の住民が酔っぱらって訪ねてくることもある。
洞窟の中には煮炊きのできる簡単なかまどがあり、朝夕の食事は牧夫たちの自炊だ。私もキャンプに出かけるときはかならず差し入れに村からトウモロコシの粉と砂糖を持っていく。朝、乳搾りをしたのち、朝食を済ませて放牧に出かけるまでの時間帯には、村から女たちが乳を買いに来たり、男たちが自分の牛の様子を見に来たりと、何人かの訪問者をむかえる。このときばかりは、牧夫はキャンプの主人として彼らにミルク紅茶を沸かして振る舞う。

放牧や遊牧といえば、牧畜民が牧草を求めて乾燥地を転々とする過酷な生活という印象がある。たしかにここでも平原部の日差しは厳しいが、牧夫は木陰で休み休み放牧番をしていればいい。また、降雨に恵まれているから遠くまで牧草を求めて移動することもない。おまけに村から来た女たちに売った牛乳の売り上げはそのまま牧夫のおこづかいになる。キャンプでの暮らしは、村のように年長者のいない気ままな牧夫だけの世界であり、年若い牧夫たちはその気ままな世界の主人公として振る舞えるのだ。

しかし、牧夫をはじめ地元の男たちは必ずしもこのキャンプに寝泊まりして放牧にあたるという役目を全面的に歓迎してはいないようだ。鉄砲を持ってやってくる牛泥棒に関する物騒な噂は絶えないし、昼間はハエ、夜は蚊に悩まされる。こんなキケンでキタナイ仕事をしているよりは、村でなにかの小さな商売をしたり、人に会いに町へ出かけるほうがよほどまし、というわけである。「たくさんの牛に囲まれてのんびり暮らすことに無上の幸せを感じる」ような生き方は、すでに時代おくれなのだ。

ある日、私が50歳代の村のある識者とキャンプの話をしていた。彼は、「サビニ(セベイ)の男なら、誰でもキャンプでの生活を経験するものだ」と自分自身の経験も交えて懐かしそうに語り出した。しかし、彼はこう続けた。
「だが、あそこで眠り、昼間は牛を放牧し、という生活を何ヶ月も続けていると頭がなまってくる」。彼によると、キャンプでは人にほとんど会うことがなく、放牧に関する知識はかなり詳しくなるだろうが、これまでになかった新しいアイデアを思いついて実行する、というようなことからは遠く離れたものだ、と言う。いろいろな人と会って、アイデアを交換するなかで、よりよい生活を模索していくことこそ、現代のサビニ(セベイ)の生き方だ、ということなのだろう。
そして彼はこう締めくくった。「放牧に従事している男は、10年経ってもそのままだ」。多くの若い世代も、のどかで気ままな時間とこのような気分との間で揺れながら、キャンプに滞在しているのだろう。

(白石壮一郎)

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